猫と庄造と二人のおんな
谷崎潤一郎
《品子は、元夫で猫好きの庄造から飼い猫のリリーを奪うが、ある日不注意から逃がしてしまう。懐かないリリーをあまり可愛く思っていなかった品子 は、一度は清々した心持になったものの、やはり何かと気にかけてしまい、眠れない夜が続く。その夜もなかなか寝付くことが出来ず、灯りをつけて雑誌を読んでいたところ、何やら外から音がする。》
その時、しぐれがまた屋根の上をパラパラと通って行った後から、窓のガラス障子に、何かがばたんと打《ぶ》つかるような音がした。
風が出たな、ああ、イヤなことだ、と、そう思っているうちに、風にしては少し重みのあるようなものが、つづいて二度ばかり、ばたん、ばたんと、ガラスを叩いたようであったが、かすかに、
「ニャア」
と云う声が、何処かに聞えた。
まさか今時分、そんなことが、………と、ぎくッとしながら、気のせいかも知れぬと耳を澄ますと、矢張、
「ニャア」
と啼《な》いているのである。
そしてそのあとから、あのばたんと云う音が聞えて来るのである。彼女は慌てて跳ね起きて、窓のカーテンを開けてみた。と、今度はハッキリ、
「ニャア」
と云うのがガラス戸の向うで聞えて、ばたん、………と云う音と同時に、黒い物の影がさっと掠《かす》めた。
そうか、やっぱりそうだったのか、―――彼女はさすがに、その声には覚えがあった。
この間ここの二階にいた時は、とうとう一度も啼かなかったが、それは確かに、蘆屋時代に聞き馴れた声に違いなかった。
急いで挿し込みのネジを抜いて、窓から半身を乗り出しながら、室内から射す電燈のあかりをたよりに暗い屋根の上を透かしたけれども、一瞬間、何も見えなかった。
想像するに、その窓の外に手すりの附いた張り出しがあるので、リリーは多分そこへ上って、啼きながら窓を叩いていたのに違いなく、あのばたんと云う音とたった今見えた黒い影とは正しくそれだったと思えるのであるが、内側からガラス戸を開けた途端に、何処かへ逃げて行ったのであろうか。
「リリーや、………」
と、階下《した》の夫婦を起さないように気がねしながら、彼女は闇に声を投げた。
瓦が濡れて光っているので、さっきのあれが時雨だったことは疑う余地がないけれども、それがまるで譃《うそ》だったように、空には星がきらきらしている。
眼の前を蔽《おお》う摩耶山の、幅広な、真っ黒な肩にも、ケーブルカアのあかりは消えてしまっているが、頂上のホテルに灯《ひ》の燈《とも》っているのが見える。
彼女は張り出しへ片膝をかけて、屋根の上へノメリ出しながら、もう一度、
「リリーや」
と、呼んだ。すると、
「ニャア」
と云う返辞をして、瓦の上を此方へ歩いて来るらしく、燐色《りんいろ》に光る二つの眼の玉がだんだん近寄って来るのである。
「リリーや」
「ニャア」
「リリーや」
「ニャア」
何度も何度も、彼女が頻繁に呼び続けると、その度毎にリリーは返辞をするのであったが、こんなことは、ついぞ今迄にないことだった。
自分を可愛がってくれる人と、内心嫌っている人とをよく知っていて、庄造が呼べば答えるけれども、品子が呼ぶと知らん顔をしていたものだのに、今夜は幾度でも億劫がらずに答えるばかりでなく、次第に媚びを含んだような、何とも云えない優しい声を出すのである。
そして、あの青く光る瞳を挙げて、体に波を打たせながら手すりの下まで寄って来ては、又すうっと向うへ行くのである。
大方猫にしてみれば、自分が無愛想にしていた人に、今日から可愛がって貰おうと思って、いくらか今迄の無礼を詫びる心持も籠めて、あんな声を出しているのであろう。
すっかり態度を改めて、庇護を仰ぐ気になったことを、何とかして分って貰おうと、一生懸命なのであろう。
品子は初めてこの獣からそんな優しい返辞をされたのが、子供のように嬉しくって、何度でも呼んでみるのであったが、抱こうとしてもなかなか掴まえられないので、暫くの間、わざと窓際を離れてみると、やがてリリーは身を躍らして、ヒラリと部屋へ飛び込んで来た。
それから、全く思いがけないことには、寝床の上にすわっている品子の方へ一直線に歩いて来て、その膝に前脚をかけた。
これはまあ一体どうしたことか、―――彼女が呆れているうちに、リリーはあの、哀愁に充ちた眼差でじっと彼女を見上げながら、もう胸のあたりへ靠《もた》れかかって来て、綿フランネルの寝間着の襟へ、額をぐいぐいと押し付けるので、此方からも頬ずりをしてやると、頤《あご》だの、耳だの、口の周りだの、鼻の頭だのを、やたらに舐め廻すのであった。
そう云えば、猫は二人きりになると接吻《せっぷん》をしたり、顔をすり寄せたり、全く人間と同じような仕方で愛情を示すものだと聞いていたのは、これだったのか、いつも人の見ていない所で夫がこっそりリリーを相手に楽しんでいたのは、これをされていたのだったか。
―――彼女は猫に特有な日向臭《ひなたくさ》い毛皮の匂を嗅がされ、ザラザラと皮膚に引っかかるような、痛痒い舌ざわりを顔じゅうに感じた。
そして、突然、たまらなく可愛くなって来て、
「リリーや」
と云いながら、夢中でぎゅッと抱きすくめると、何か、毛皮のところどころに、冷めたく光るものがあるので、さては今の雨に濡れたんだなと、初めて合点が行ったのであった。
それにしても、蘆屋の方へ帰らないで、此方へ帰ったのはなぜであろう。
恐らく最初は蘆屋をめざして逃げ出したのが、途中で路が分らなくなって、戻って来たのではないであろうか。
僅《わず》か三里か四里のところを、三日もかかってうろうろしながら、とうとう目的地へ行き着けないで引っ返して来るとは、リリーにしては余り意気地がないようだけれども、事に依るとこの可哀そうな獣は、もうそれほどに老衰しているのであろう。
気だけは昔に変らないつもりで、逃げてみたことはみたものの、視力だの、記憶力だの、嗅覚だのと云うものが、もはや昔の半分もの働きもしてくれないので、どっちの路を、どっちの方角から、どう云う風に連れて来られたのか見当が付かず、彼方へ行っては踏み迷い、此方へ行っては踏み迷いして、又もとの場所へ戻って来る。
昔だったら、一旦こうと思い込んだらどんなに路のない所でもガムシャラに突進したものが、今では自信がなくなって、様子の知れない所へ分け入ると怖気がついて、ひとりでに足がすくんでしまう。
きっとリリーは、そんな風にして案外遠くの方までは行くことが出来ず、この界隈をまごまごしていたのであろう。
そうだとすれば、昨日の晩も、一昨日の晩も、夜な夜なこの二階の窓の近くへ忍び寄って、入れて貰おうかどうしようかと躊躇いながら、中の様子を窺がっていたのかも知れない。
そして今夜も、あの屋根の上の暗い所にうずくまって長い間考えていたのであろうが、室内にあかりが燈ったのと、俄かに雨が降って来たのとで、急にああ云う啼き声を出して障子を叩く気になったのであろう。
でもほんとうに、よく帰って来てくれたものだ。よっぽど辛い目に遭ったればこそであろうけれども、矢張私をアカの他人とは思っていない証拠なのだ。
それに私も、今夜に限ってこんな時刻に電燈をつけて、雑誌を読んでいたと云うのは、虫が知らしたせいなのだ。
いや、考えれば、この三日間ちょっとも眠れなかったのも、実はリリーの帰って来るのが何となく待たれたからだったのだ。
そう思うと彼女は、涙が出て来て仕方がないので、
「なあ、リリーや、もう何処へも行けへんなあ。」
と、そう云いながら、もう一遍ぎゅっと抱きしめると、珍しいことにリリーはじっと大人しくして、いつまでも抱かれているのであったが、その、物も云わずに唯悲しそうな眼つきをしている年老いた猫の胸の中が、今の彼女には不思議なくらいはっきり見透せるのであった。
「お前、きっとお腹減ってるやろけど、今夜はもう遅いよってにな。―――台所捜したら何なとあるやろ思うけど、ま、仕方ない、此処わての家と違うよってに、明日の朝まで待ちなされや。」
彼女は一と言一と言に頬ずりをしてから、漸《ようよ》うリリーを下に置いて、忘れていた窓の戸締まりをし、座布団で寝床を拵えてやり、あの時以来まだ押入に突っ込んであったフンシを出してやりなどすると、リリーはその間も始終後を追って歩いて、足もとに絡み着くようにした。
そして少しでも立ち止まると、直ぐその傍へ走り寄って、首を一方へ傾けながら、何度も耳の附け根のあたりを擦り着けに来るので、
「ええ、もうええがな、分ってるがな。さ、此処へ来て寝なさい寝なさい。」
と、座布団の上へ抱いて来てやって、大急ぎであかりを消して、やっと彼女は自分の寝床へ這入《はい》ったのであったが、それから一分とたたないうちに、忽《たちま》ちすうッと枕の近くにあの日向臭い匂がして来て、掛け布団をもくもく持ち上げながら、天鵞絨《びろうど》のような柔かい毛の物体が這入って来た。
と、ぐいぐい頭からもぐり込んで、脚の方へ降りて行って、裾のあたりを暫くの間うろうろしてから、又上の方へ上って来て、寝間着のふところへ首を入れたなり動かないようになってしまったが、やがてさも気持の好さそうな、非常に大きな音を立てて咽喉《のど》をゴロゴロ鳴らし始めた。
そう云えば以前、庄造の寝床の中でこんな工合にゴロゴロ云うのを、いつも隣で聞かされながら云い知れぬ嫉妬を覚えたものだが、今夜は特別にそのゴロゴロが大きな声に聞えるのは、よっぽど上機嫌なのであろうか、それとも自分の寝床の中だと、こう云う風にひびくのであろうか。
彼女はリリーの冷めたく濡れた鼻のあたまと、へんにぷよぷよした蹠《あしのうら》の肉とを胸の上に感じると、全く初めての出来事なので、奇妙のような、嬉しいような心地がして、真っ暗な中で手さぐりしながら頸《くび》のあたりを撫でてやった。
するとリリーは一層大きくゴロゴロ云い出して、ときどき、突然人差指の先へ、きゅッと噛み着いて歯型を附けるのであったが、まだそんなことをされた経験のない彼女にも、それが異常な興奮と喜びの余りのしぐさであることが分るのであった。
底本:「猫と庄造と二人のおんな」新潮文庫、新潮社
1951(昭和26)年8月25日発行
2012(平成24)年6月25日74刷改版
底本の親本:「谷崎潤一郎全集 第十四卷」中央公論社
1967(昭和42)年12月25日発行
初出:「改造 新年号 第十八巻第一号」
1936(昭和11)年1月1日発行
「改造 七月特大号 第十八巻第七号」
1936(昭和11)年7月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「ぎゅっ」と「ぎゅッ」の混在は、底本通りです。
※誤植を疑った箇所を、底本の親本の表記にそって、あらためました。
入力:悠悠自炊
校正:砂場清隆
2021年4月27日作成
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