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蜜柑 芥川竜之介

 《ある冬の日、汽車に座り出発を待っていた筆者は、駆け込み乗車をしてきた田舎者の少女を不快に思う。発車後、彼女の存在を忘れようと開いた新聞の夕刊には平凡な記事ばかりが並び、少女の存在や、汽車が暗いトンネルに差し掛かったことも重なって、これは私の退屈な人生の象徴だ、と鬱々とした気持ちになってしまう。》

 それから幾分か過ぎた後であった。

 ふと何かに脅《おびやか》されたような心もちがして、思わずあたりを見まわすと、何時の間にか例の小娘が、向う側から席を私の隣へ移して、頻《しきり》に窓を開けようとしている。

 が、重い硝子戸《ガラスど》は中々思うようにあがらないらしい。

 あの
《ひび》だらけの頬は愈《いよいよ》赤くなって、時々|鼻《はな》をすすりこむ音が、小さな息の切れる声と一しょに、せわしなく耳へはいって来る。これは勿論私にも、幾分ながら同情を惹くに足るものには相違なかった。

 しかし汽車が今|将《まさ》に
道《トンネル》の口へさしかかろうとしている事は、暮色の中に枯草ばかり明い両側の山腹が、間近く窓側に迫って来たのでも、すぐに合点《がてん》の行く事であった。

 にも関らずこの小娘は、わざわざしめてある窓の戸を下そうとする、――その理由が私には呑みこめなかった。いや、それが私には、単にこの小娘の気まぐれだとしか考えられなかった。

 だから私は腹の底に依然として険しい感情を蓄えながら、あの霜焼けの手が硝子戸を
《もた》げようとして悪戦苦闘する容子を、まるでそれが永久に成功しない事でも祈るような冷酷な眼で眺めていた。

 すると間もなく凄じい音をはためかせて、汽車が
道へなだれこむと同時に、小娘の開けようとした硝子戸は、とうとうばたりと下へ落ちた。

 そうしてその四角な穴の中から、煤《すす》を溶したようなどす黒い空気が、俄《にわか》に息苦しい煙になって、
々《もうもう》と車内へ《みなぎ》り出した。

 元来|咽喉《のど》を害していた私は、手巾《ハンカチ》を顔に当てる暇さえなく、この煙を満面に浴びせられたおかげで、殆《ほとんど》息もつけない程|咳《せ》きこまなければならなかった。

 が、小娘は私に頓着する気色《けしき》も見えず、窓から外へ首をのばして、闇を吹く風に銀杏返《いちょうがえ》しの
《びん》の毛を戦《そよ》がせながら、ぢっと汽車の進む方向を見やっている。

 その姿を煤煙《ばいえん》と電燈の光との中に眺めた時、もう窓の外が見る見る明くなって、そこから土の匂や枯草の匂や水の匂が冷《ひやや》かに流れこんで来なかったなら、漸《やうやく》咳きやんだ私は、この見知らない小娘を頭ごなしに叱りつけてでも、又元の通り窓の戸をしめさせたのに相違なかったのである。


 しかし汽車はその時分には、もう安々と
道《トンネル》を《すべ》りぬけて、枯草の山と山との間にまれた、或貧しい町はずれの踏切りに通りかかっていた。

 踏切りの近くには、いずれも見すぼらしい藁屋根や瓦屋根がごみごみと狭苦しく建てこんで、踏切り番が振るのであろう、唯|一
《いちりう》のうす白い旗が《ものう》げに暮色を揺《ゆす》っていた。

 やっと
道を出たと思う――その時その索《そうさく》とした踏切りの柵の向うに、私は頬の赤い三人の男の子が、目白押しに並んで立っているのを見た。

 彼等は皆、この曇天に押しすくめられたかと思う程、揃《そろ》って背が低かった。そうして又この町はずれの陰惨たる風物と同じような色の着物を着ていた。

 それが汽車の通るのを仰ぎ見ながら、一斉に手を挙げるが早いか、いたいけな喉を高く反《そ》らせて、何とも意味の分らない
声《かんせい》を一生懸命に《ほとばし》らせた。

 するとその瞬間である。窓から半身を乗り出していた例の娘が、あの霜焼けの手をつとのばして、勢よく左右に振ったと思うと、忽ち心を躍らすばかり暖な日の色に染まっている蜜柑《みかん》が凡そ五つ六つ、汽車を見送った子供たちの上へばらばらと空から降って来た。

 私は思わず息を呑んだ。そうして刹那に一切を了解した。

 小娘は、恐らくはこれから奉公先へ赴《おもむ》こうとしている小娘は、その懐に蔵していた幾
《いくか》の蜜柑を窓から投げて、わざわざ踏切りまで見送りに来た弟たちの労に報いたのである。

 暮色を帯びた町はずれの踏切りと、小鳥のように声を挙げた三人の子供たちと、そうしてその上に乱落する鮮《あざやか》な蜜柑の色と――すべては汽車の窓の外に、瞬《またた》く暇もなく通り過ぎた。

 が、私の心の上には、切ない程はっきりと、この光景が焼きつけられた。

 そうしてそこから、或|得体《えたい》の知れない朗《ほがらか》な心もちが湧き上って来るのを意識した。

 私は昂然と頭を挙げて、まるで別人を見るようにあの小娘を注視した。

 小娘は何時かもう私の前の席に返って、不相変《あいかわらず》
《ひび》だらけの頬を萌黄色の毛糸の襟巻に埋めながら、大きな風呂敷包みを抱えた手に、しっかりと三等切符を握っている。…………


 私はこの時始めて、云いようのない疲労と倦怠とを、そうして又不可解な、下等な、退屈な人生を僅に忘れる事が出来たのである。

​  (大正八年四月)

底本:「現代日本文学大系 43 芥川龍之介集」筑摩書房
   1968(昭和43)年8月25日初版第1刷発行
入力:j.utiyama
校正:野口英司
1998年3月16日公開
2005年10月18日修正

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